西暦二千十八年三月四日

寒いな冬だしな

 
さいきんは言葉の意味がよくわからなくなってきている、景色が言葉になってすぐの二次景色は直ちに崩壊していく。ちなみに全ては夢らしいですね。
 
 

格好いいってつまりどういうことなんだ、なんか他よりすぐに言葉の領域から外れてしまう気がする。たとえば愛は言葉でなぜならそれは歴史性に宿り、歴史とは生々しい過去を言葉で砕いて再配列したものなのだからまだ言いようがある。愛と勇気は言葉〜♪ (もちろん、信じられれば力) ここに格好いい豆腐がある。幾千層の外殻に覆われて箸を阻むのかもしれないし、見たものの庇護欲を掻き立てる赤い角を生やしているかもしれない、あるいは触れれば血を吸い脚を伸ばして遥かな故郷北海道(かアメリカ(この二者の違いはよくわからない))への旅路を始めるのかもしれないが、とにかく格好いい豆腐の格好よさを救うことなどできはしないのだと思う。ところで豆腐はぜんぜん彫刻に向いていない。柔らかい以上に脆いからその形状から少なくとも人力によって格好よさその他の性質を取り出すことは難しい。やってやれないこともないだろうが、食品で遊ぶんじゃない。内在する形として表せないのなら取り付けるしかない、取り付けるしかないのだったら豆腐は要らない。たぶんほとんどの格好よさとは取り外しできるところにあって、地上を離れ雲間に浮かび日射を駆動力として凝集と散会を繰り返していつしか海に注ぎ網に捕えられると発達した流通網に乗って店に並ぶ。角も服も武器も性格もみなイエローサブマリンで売っている、本当だ、おれは見たことがある。その話をしたい。

 

今さら気づいたんだけど SRE の Yedo ってあれ薔薇の名前じゃんね、たぶん当たり前すぎて誰も言わなかったんだろうな。ひどいやひどいや

 

 明日につづく。

西暦二千十八年三月三日

デカフェアールグレイを大量に作って冷やしておくととても便利!

 

三時におきたのでいったん自殺して、それから『怪奇小説傑作集4』を読み、復活してきたところで映画を観ました。

 

サド侯爵「ロドリゴあるいは呪縛の塔」は飛び出す3D!みたいな地獄めぐりの描写が大迫力でとにかく楽しい。ジェラール・ド・ネルヴァル「緑色の怪物」は読む前から絶対一つはあるだろなと想像していたカタコンベものだが思ってたのと違った。グザヴィエ・フォルヌレ「草叢のダイアモンド」冒頭の蛍の色占いの記述が "幾何学的精神" ってやつなんですか。テオフィル・ゴーティエ「死女の恋」昼は僧で夢の中では吸血鬼と逢瀬を重ねる騎士様のドキドキ二重生活これは傑作。バルベエ・ドルヴィリ「罪のなかの幸福」もかなりよくて目線だけで黒豹を屈服させる気迫を放ちまた剣技にも長けた女丈夫がかつて夫と共謀して恥ずべき行いをしたはずなんだけどもんなこと関係ねえ!なんだかんだ地球で一番くらい幸福なんだぜ今という話。解説によるとドルヴィリは異端審問復活論者だったというヤバ情報があっていろいろ納得した。公正でない世界がマジモンの恐怖だったんだなー。唯物主義者で皮肉屋の医者が語り部であるせいかどうなのか、ちょっと全体的に冗長気味ではあるんだけど、女丈夫の生まれ故郷なんかのディテールがすごくよくてそれでもいいなとおもった。シュオッブ「列車〇八一」たぶんこの中でいちばんうまいし、いちばん怖かった。十九世紀は急速な都市化とそこで爆発的に拡がる感染症の時代であったんだなあ。レオノラ・カリントン「最初の舞踏会」素晴らしい。これだけかなり毛色が違うというか現代的すぎる。

 

『シタデル・オブ・ランズ・エンド』はかなりヘンテコな映画で、題のごとくランズエンド岬に発掘旅行しに来た地質学者グラントとお供の自称魔法使いの弟子ジョーンズがいちゃこらしながらいろいろと発掘してなんやかんやあって自称独立国をつくるお話。いろいろの内訳というのが、恐竜を自称するサンタクロースとか魔法使いの師匠とか原人とか大戦の残骸とか。骨格の時点ではちゃんと恐竜だったのにね。ちょっとキンザザっぽいんだけど、特撮は皆無。発掘するときは常に深いディゾルブが二重三重にかかってグラントのイキ顔がどアップになっていたのが実は魔法の発動エフェクトだったことが終盤に判明して、結局恐竜マニアの師弟にグラントは利用されていたらしいことがわかる。でも結局は恐竜を自称する狂人しか出てこないので主人公は埋められそうになるのだが、人間の始祖を自称する光輝を背負った人物が最下層から現れておもむろに取り出した拳銃で、自らの存在を否定する恐竜骨格と恐竜を自称する人々を全員撃ち殺すラストは、魔法使い師弟に共感してちょっと泣いてしまう。まあ全体としてはサー・トマス監督のランズエンド愛と、すべては埋まっているだけなんだという強い楽観が全編を覆っている。

 

明日の予定:愛と勇気は言葉

 

 

 明日につづく。

西暦二千十八年三月二日

ハッ(おきた今! 重要なものはただ過去だけだ)!

時候のあいさつ:盛大な梅雨ですね みなさんもどうかカビずにお過ごしください

目の前を巨大な烏賊のような
視線 が通り過ぎる 魂がない
広い窓辺に倒立して 白いガラスにぶら下がっている
夏の、雨の、夕のない星にいたのだったそういえば
「甘いな」
と言うあなたは鋼塊を片手で持ち上げる 「何を?」「汁さ」
全ての鳥を撃ち落とす以外には生きる術を知らない友人は
今は布団へ(に?)重力以上の力で溶ける
今からだって海に行って 君(あなた だっけ?)の眷属たちのために歌を取ってきてもいい
しかしそこは氷海だ
わたし(おれ?)に属する何もかもが凍りついて停止して(仕方はないのだが)
しかしゆっくりと夢が降りていく

おれだけは破滅するから是非とも安心してほしい でなければ高笑いだけはする予定

わたしはあまりに清すぎる

恐怖小説入門してる
 なぜならわたしの中にある恐怖の種類は一つ、ただ一つだけで、それはたぶん面白くないからだ
恐怖小説入門してる
 まだよくわからないけど、とりあえず澁澤龍彦の訳す大時代の女性は当世流の意味合いにおいてとにかくかわE
  ちゃんと入門しろ

明日につづく。

西暦二千十八年三月一日

いい日 カービィ

 

暖かく、とにかくいい日だった。人生最良の日に数えられるほどで、温暖であるという以外特に現世的な理由がなかったところも好ポイントです。

 

産まれてこのかた意識のあるときは体のどこかしらが痒むことに気づいた。よく発狂しないものと思うが、実はもうすでに、いやそんな簡単には。

 

生きて動いている鳥を見ると条件反射のように憎しみが溢れてくるのにも思い当たる節はないのだった。

西暦二千十八年二月二十七日

これはまだわたしの体も脳も硬化せず、少女だったときのお話です。

 

眼の前の男が自己紹介する。アスファルト舐め。それがおれの名前だが。男は襟首の伸び伸び色褪せた濃紺のトレーナーを着込んで、うつ伏せに倒れていた。路に棄てられていたらしい。そのときわたしは社会科の授業で街のひとに話を聞きに行く課題の最中だった。男が言う。
 「おれの名前は『アスファルト舐め』だが。これは大胆な意訳でおまえたちの言葉では、発音はおろかその統語さえ覚束ないだろう」
  男の声は経年で造成当初の黒さの抜けたアスファルト、罅のおおい白線のこちら側、砂が吹き寄せて泥になった縁石のほどちかくでくぐもる。
 わたしは一言一句違わず、とわたしは思っているのだが、小さいノートにボールペンで男の発話を書き付ける。そして揮発しやすいそのとき思ったことも註釈としてメモ書きする。
 男はここではないどこかで、そしてこの言葉とは違う言葉での、アスファルト舐めを意味する名前を持っている。ではそのどこか違う場所でのアスファルトとはどういうことなんだろう。舐めるとはどういうことを指すのだろう。見た限りで男はわたしや友達のニエちゃんやお父さんやお母さんや担任のコーヒー先生とおなじようなカラダを持ち、すくなくとも舐めるとは口を開けて、もしくは唇の隙間から舌を出して、あるものに触れることを言う、それはおなじだろう。指先で触れることを舐めると言うのだったら、わたしはわたしのノートもペンも、ニエちゃんの袖もサイフも、そこかしこをぺろぺろ舐めている。唾液は出ないのできたないということもないけれど。ああ、舐めるように見るという言い方もあったのだ。でもそういうことでないらしいのは、男がまさにいま眼の前でアスファルトを舐めている、この言葉での、文字通りの意味で。だからわたしは聞かなければならない。
 「あなたのいた場所でアスファルトとはアスファルトですか」
 男はその高い鼻が邪魔になるようで、舐めるときは両掌のひらで上体を支え、マンホールの奥に耳をそばだてるように顔を傾けだらりと垂れ下がった長い舌でアスファルトを舐める。「アスファルトアスファルトでそれ以外ないだろう、アスファルトでないアスファルトがあったなら是非教えてくれ、舐めに行くから」
 男はいいひとでした。わたしはこの課題がこのように軌道にのるまで五回も失敗していたのでした。みんなわたしが質問をしても、忙しいという旨を口で伝えたり、質問の意味がわからないという顔、わたしが読み間違えていなければ、そして飽きもせずそのつど途方にくれるのでした。そのような体験も大人になるためには必要ということなのかもしれず、でもわたしは失敗するたび言いようもなく疲れて、最後に聞いた彼が十全に対応してくれるので巨大な感謝の念が湧き上がるのを止められませんでした。
 しかし今回の質問は親切な男にもその答えかたがわからなかったようで、わたしは同じようで違う質問をしなければなりません。
 わたしは男にすこしのあいだ待つように言い、ちかくの駐車場まで小走りで向かいました。手当たりしだい、なるべく違った種類になるように礫を拾いあつめ、上着のポケットが一杯になるまで詰め込みます。ついでに細かい砂もほじくって隙間に流し込みました。
 戻ったときも男はその位置を変えていないように思われました。男は歩けないようでした。わたしは男の顔の近く、頑張れば舌の届きそうな範囲に拾ってきたものを広げます。
 男は高い鼻がアスファルトに擦れないよう首を振り、理解と不正解を伝えます。「そうでない。この地のなにを持ってこようとも、それがアスファルトでないかぎりはアスファルトでないんだよ」「部分的には」とわたし。「原料にはなるかも」と男。「じゃあこれ持って行けばどう(でしょう)」ふたたびわたし。男はすこしのあいだ黙っていました。「ちがうかも、いや、完全に違うか。あまりに違っているから宝石としか思われない」かの地でこの地のアスファルトはなんの役にも立たないであろうことを、男の言葉は暗に示していました。「では」わたしは語尾を上げてさらに訊きます。男はアスファルトをもう二、三度舐めてから答えました。「ここでのアスファルトとは、油田から得られた原油のうち最も重い成分の混合物、それは原油の精製過程のうち最後に残ったもので、俗には道路の舗装材として骨材を混ぜ熱した後ゆっくりと冷却しながら結晶化させたものを言うが、おれのいた場所に油田なんてものはないし、道路もそこらじゅうにあるものでもなかった、そしてそれは青くも黒くも液体でも固体でもなく、おまえたちの言うところの樹、のようなものに成るようなものから抽出されるものであって、それはおまえたちの言うところの原油に相当し、そこからは種々の役立つものがつくられる。そして最後に残ったもの、しかし食べるものでなく、高い状態から低い状態からゆっくり変化させると安定し、移動するものの足場を支えるようなところのものだ。そのような意味合いが似ているからおれはここでのアスファルトをそのように認めたわけだ」わたしは男の長広舌に追いつくのに必死で、後からノートを見返してみると、混乱と、その混乱を書いている途中なんとかしようと苦戦した跡が認められました。
 わたしは男にありがとうと礼を言いその場を辞して、帰路に向かう途中はたと思い至り、度重なる車の荷重に耐えかねたアスファルトの罅を手近なコンクリートブロックで殴りつける。手首の奥が痺れるのにはかまわず何度も何度も殴りつけて、そのうちハイになって楽しくなってきたあたりで、手頃な破片が剥離して、下から細かい砂地の層がちらとのぞく。アスファルトの欠片、その断面はなるほど結晶というのにふさわしい黒々とした光沢があり、しかし舐める気にはとうていならずに、わたしは男のいた場所まで今度は走って向かう。男の姿が消えている、と思ったのは束の間、道の反対側の電信柱の影に男は凭れていた。男は眠っていた。ここが外でなければ寝息が聞こえていたはずだった。わたしは男の手に男の場所では宝飾品であろうところのものを握らせ今度こそ帰路に就く、家に帰ると、聞いた話と調べたことをまとめ、そしてわたしは道路の舗装に使われる瀝青の成分はごくわずかでしかないことを知る。

西暦二千十八年二月二十一日

見ているだけで哀れをさそう老犬のいるたばこ屋さんの前、背嚢にネームプレートのぶら下がったアングロサクソンに火を求められた。不思議とどの言語で頼まれたか憶えていない。IMCO の復刻の、灰羽のレキが使っていたような発火装置を手渡す。たっぷり 1 秒ほど戸惑った彼はその機構をしっかり把握して求めていた火を得ることができたようだった。お返しに、と真紅の色をしたゴルフボール大の真球をくれた。彼の故郷では余るほど産出されるという。自由意志球だった。わたしはありがとうと日本語で返し、タバコ屋の影のところ、駅前のファミリーマートの燃えるゴミ入れにそれを投げ込んでその日はおしまい。