文通やりたいな


 ツイッター(とあくまで呼ぶ)のつまらなさにもいろいろあって、よく話題になるのはおすすめ欄のひどさだとか、収益のために跋扈する顔のないアカウントたちであったり、全般的な人心のすさみ具合だとかですが、それらはあくまで表層的な問題にすぎないと感じています。わたし自身が知らずして育んでしまった無視をする力によって、そこはなんとかなる。
 そうでなくて、

ワインディング・ノート24(『IMONを創る』・いがらしみきお・人間関係) - ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ

というようなことが、よくわかってきた気がします。ようは根本的に飽きてきているということで、ならば、別のやり方を試してみればよい。

 

 あなたがが何かを買ったとか、何を食べたとか、どこに行ったとか、それらはあくまで対象であって、たしかにあなたの魂を多少なりとも震わせ、投稿をさせるに至った事物であるとは思うけれども、そこに因果や理路や文脈や記憶を読み取ることは難しい。もちろんわたしのよく知る人物のことであれば、その限りではないにしても。とにかく、ほとんどが "どーでもいい" ことだな、と思ってしまう。しまっている現状は、この言いっぱなしで魚を待つ釣り人のような態度を固着させるプラットフォームに、惰性で居着いているだけでは、どうにもならないんじゃないかと思うわけです。
 といって、おしゃべりも好きではあるけども、わたしはわりと迂闊なことを言いやすい、というのもお酒を入れていないと舌の動きが鈍重にすぎる、不健康だ、という個人的な問題もあります。

 揮発性の問題もあります。ツイッターのスペースには録音機能があり、そしてその他のあらゆる通話と会話を記録することも不可能ではないでしょうが、せっかくのリアルタイム性の極致のような行為をスポイルしてしまうような気がして、どうも乗り気になれません。不自然だ、と言い換えてもよいでしょう。そして文章を誰かに宛てて書くことは、どうしたって自然な振る舞いではあり得ないという直感に、今は鼓舞されつつあるのですが、まだ文通の話はしていない。

 

 ちょっと話は飛んで、引用の引用で、「"人間関係"は、ここにきて"作品"になるということだ」とは、なかなか高邁だなーと思うわけですが、ま、志は高いほうがいいに決まってる。
 で、

ワインディング・ノート25(『IMONを創る』・いがらしみきお・カント) - ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ

けっこう考え込んでしまった。カントの昼食エピソードはとても有名ですが(女人禁制がどうのとか言うつもりはもちろんありませんよ!)、たぶん、そうして場を作る、作ることを試すのは、試すことができるのであれば、やってみたい。

 

 そこへきて、公開の文通というのは、ちょうどいい古さと新しさがあると思います。
 具体的にどうしようかという点について、

https://www.amazon.co.jp/コレスポンデンス-仮-ティム・インゴルド/dp/475051764X


という書簡集を読んで、それらしい箇所を見つけたので、長めに引いてみます。

文通《コレスポンデンス》では、すべての介入が返答《レスポンス》を招き、すべての返答《レスポンス》が今度は介入となるので、そのプロセスには、結論をもたらすような本質的なものは何もありません。生それ自体と同じように、衝動とは継続することなのです。本は読み終えた時に片付けられ、その表紙の中に埋もれてしまうのに対して、文通《コレスポンデンス》は無視や暴力によってのみ終わります。一方では、手紙が――書類の山に埋もれたり、机の引き出しに忘れられたりして――返事がもらえず、単に途絶えてしまうことがあります。

 

私は、怠慢や暴力によって、私たちの文通《コレスポンデンス》を終わらせたくありません。しかし私は、この本を閉じことに向かっています。そしてあなたにもまた、表紙を閉じる時――あなたがこの本を読み終えたと言う時――が来るに違いありません。その時はどうでしょう? 言葉はあなたに残りますか? もちろん、私はそうであってほしいと望みます。それでは、あまり明確ではありませんが、別の方法で表紙を考えてみましょう。それは、埋葬の際に遺体が石板で覆われるように、その上を覆ってしまうようなことではありません。というのは、覆うことはまた、将来の利用のために、安全に保管するために、避難所や保護を提供するからです。私たちはしばしば、いつかそれに戻ってくるために、モノを覆うのではないでしょうか? 結局のところ、閉じた本はいつでも開けることができるし、良いカバーがあれば、その間にページが汚れることもないでしょう。本は、風景なら歩くことができるのと同じように、何度でも読むことができるのです。この言葉を読んで、最後のページをめくり、カバーを閉じ、戻ってくることを考えてみてください。私たちが別れ際にまたね《オールヴォワール》と言うように。

 これを読んで、具体的な形式が思い浮かびました。各々のブログ上で、各々の文通相手への返答を同時に行うことを、今は考えています。それがわたしたちの表紙であり、時間に沿って区切ったある種の風景にもなるでしょう。はてななら通知も飛ばせてよいのかなと思います。内容はもちろん、応答の頻度や文量、細々としたやり方については、好きにするといいでしょう。

 巨大といっしょに文通をしたいという方は、何らかの手段でコンタクトをとっていただけると嬉しいです。先後とか決めましょう。

 以上です。


2024.01.25 追記

 「各々の文通相手への返答を同時に行う」というのが、わかりづらいかもしれないので、図を書いてみました。

 ここではAさんを主人公として、手紙のやり取りを図示しています。数字はあまり気にしないでください。余計にわかりづらくなったかもしれませんが、とくに複雑なこともなく、来たものを返しているだけで自然とこうなるはずです。同様の構造が、Bさん以下にもあり得ます。

 ここからAさんがエントリ③を書くにあたって、BさんCさんDさんの返答が出揃うのを待つかどうかは、本人に委ねられています。まとめたほうがシナジーがあって面白そうなら、そうすればよいし、しびれを切らしたか長くなりすぎるのが嫌なら、適当にバラせばよいでしょう。

 Aさんの視点からは、CさんDさんのまとめられた返信が自ずと眼に入るわけですが、そこでなされた記述をダシに話題を発展できるのが、ちょっと面白いところかなと思います。一対一の文通よりは、公開ということもあって、私信性はだいぶ薄まっていることでしょう。それが良いか悪いか、どうなるかは、やってみなければわかりませんが。

 このネットワークは、べつにブログ上でなくても、テキストか画像をためておける場所があれば、どこにでも展開可能です。通知の有無はまあ、些細な問題でしょう。

ルール・流れとしてはこんな感じでしょうか:

  • インターネット上のどこでやるかを知らせておく(はてブ推奨)
  • (わたしから)参加者に何か書く(最初はファイアスターターとして短めに)
  • 他の参加者は好きなタイミングで好きに書く
  • (わたしは)何日か待ち、好きにまとめて返す
  • 無視したり放置したりする、忘れた頃の便りもまた嬉し
  • 参加者どうしも好きにおっぱじめたりする

 つまりはかなりノールールです。あったほうがよさそうな制約や、不明点があれば教えてくれると嬉しいです。

 わたしとしてはこれが、読書記録の代わりやお互いの何か記憶の触発になればいいな、と思っています。

 以上です。