2024.01.29 藤井さんむらたさん鷲羽さんへ

 

「心をこめて書いたんだろ」私は努めて静かに言った。「書いたことはなくならない」
乗代雄介『旅する練習


藤井佯さんへ

 旧年中は大変お世話になりました。この場を借りてお礼を申し上げます。
 具体的にはもちろん、『鳩のおとむらい』のことです。だって、77篇の編集って、余裕で人の域を超えてるだろ! と、わりと遥かな山峰を見遣る気持ちになりますね。改めて、ねぎらわせていただけますと幸いです。
 以前にも言ったような気がしますが、掲載順の上で、エ小賞大賞者と奇想短編グランプリ者に挟まれたわたしの心細さといったら! 賞歴とかは置いといて、あんなすごいのに囲まれたら困ってしまいますね。これは先々にも残る栄誉と思っております。
 関連して、あの『鳩のおとむらい』にたいする三時間にも及ぶ読書会にて、藤井さんの作の裏話として、わたしの悪癖のような登場人物の命名を真似したという話があったかと思います。そこで思ったのは、なんというか、わたしの作が他の書き手に影響を及ぼしうるという、ある意味では当たり前で、これから先にはもっと当然にもなるだろう、この素朴な感動と怯みのことです。補足的にわたしの方から言わせてもらうと、あのカタカナ+漢字一字の姓を重用するのは、お話における虚構性の標識として便利に使わせてもらっているということです。彼人らの出自はわたしの現実にはあるけども、やっぱりその延長線上の遠いところから来たのだ、といったあたりでしょうか。それがいつ頃からなのか、また何か直接の引用元があったような気もしますが、今はまだ思い出せていません。
 直近の話題として、藤井さんの企画された故郷喪失アンソロジーについて。若干たてこんでいるのもあって、実際に出すかどうかはわかりませんが、たいへんに興味を惹かれております。
 幸いにも「故郷喪失」と聞いて容易に思い起こされるような事態には一ミリもなっていない、故郷から一歩も出ないわたしにも、なぜか望郷の念のようなものが拭い去りがたくある、ということを書けるかもしれません。それは神話や夢の領分かもしれず、実感がこもるかどうかはよくわかりませんが。
 追伸というより質問:「大移動」の、あの語りを採用するのには、やはり勇気が必要だったのでしょうか?

巨大より

 



むらたさんへ

 旧年中はいろいろとお世話になったように思います。ありがとう。
 以前にも何度か話したと思いますが、明日は高校時代の友人の結婚式がありまして、目前に控えた今、自分でも思いもしなかったほどの軽やかで楽しい気持ちになり果てております。この気軽さとは、家族でもない他人の結婚式という催しが、たいして自分には関係のないことに由来しているのでしょう。客人とは元来そういうものですが、こういうときのわたしはかえって本番よりも楽しいのではないかと思うわけです。似たようなことを、むらたさんはわかると思いますが、わりと忙しくしたか、空気のきれいな日の夕方に「今日はたくさんお酒を飲むだろうな」との決意というよりは確信、その酩酊の予感のほうがむしろ本当に飲んでいるときよりも楽しいこととよく似ています。
 そしてこれを書いている今はもう事後になりました。言えることは多くありませんが、挙式の説教パートではあるあるらしいコリント人への手紙13が読み上げられて、その「そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 」というくだりを聞けただけでかなり満足してしまった。披露宴の列席者も、しきりに「日々の積み重ねが〜」というようなことを言い募り、なんだか僻みっぽい気持ちになってよくないですね。ついでに、クロウリーの魔法名ペルデュラボ―とは、ラテン語で「我は耐え忍ぶ」の意であることを思い出しました。病気になりそうだ。
 あと、主役を欠いた三次会も早々におえて、なんとなく寂しいのでひとり入った地元のバー(そんな習慣はまったくないので自分でも不思議ですが)では、式場から持ち帰った一輪の白いバラとユーカリの葉を、どうせ持て余せてしまうと思ったのでその場でショットグラスに活けてもらったことを書いておきます。そんな機転が自分にあるとは思わなかった。
 そういえば、『ほんのこども』はどうでしたか? よさそうなら、読んでみたいです。ほかにも、何か今のおすすめがあれば教えてくださいな。

巨大より

 


 

鷲羽巧さんへ

 そろそろ手紙を書いているのか日記を書いているのかわからなくなってきました。それなりに難儀しているわけで、一通目のこの難しさとは、小説の冒頭部を書くことの難しさに似ているかもしれません。
 ここのところは、あらゆる事物が『旅する練習』に引きつけられていくようです。もし未読でしたら、強力におすすめいたします。感想代わりに、旅先でストイックに叙景の練習をする小説家の語り手の姿勢が、スケッチと線引き?を日課とする鷲羽さんの姿と重なったことを言っておきます。わたしも散歩が主目的の散歩のときには、カメラを持っていくことにしているんですが、追加でノートを持っていって、その場で描写の練習をするのもありだな〜と思っています。
 とはいえ、この記事の最初に掲げた引用箇所のような、書くことと生きることの一致ということについて、今はそこまでストイックに考えるのもなあ、という気分ではあります。というか、狭義の「書くこと」について、鹿爪らしくしなくとも、人間であれば、というか生物であれば、体内の器官や周囲の環境あるいはその相互作用のなかに記憶を不可避的に残していくものだからです。ただ生きているだけでも間違いなく脳には記憶が書き込まれ、またその記憶が他との交わりにおいていつか何かになる、ということ自体、『旅する練習』には十分に書いてあることでもありますが。好きな事物にたいする、忍耐と記憶が、いつか人を集め街を造りやがては風景さえも変えていく、そういうことがあり得ることそのものの幸、あるいは最初の発願を問わない透明な成就、といったあたりでしょうか。
 とにかく、もしかすると書かずにいても、考えたり思い浮かんだしただけのことでもいいのかもしれません。記憶さえあれば、それが他に向かって滲むこともあるでしょう。たぶんこれらの違いとは、伝達のしやすさという軸上のグラデーションと向き不向き、または伝うことへの興味の強さであるだけなのかもしれず、ただの発話でも踊りでも音楽でもそれは構わない、何ならある場面の表情というだけでも十分にそれは記憶に拠る生の技芸であり、現実を変える力(=魔術)であるとの、デフレ的な思いがあります。
 いまいちまとまりませんが、今日はこのへんにしときます。こんなんでよかったのかな? とりあえず、ご返信お待ちしております。

巨大より