西暦二千十八年二月二十七日

これはまだわたしの体も脳も硬化せず、少女だったときのお話です。

 

眼の前の男が自己紹介する。アスファルト舐め。それがおれの名前だが。男は襟首の伸び伸び色褪せた濃紺のトレーナーを着込んで、うつ伏せに倒れていた。路に棄てられていたらしい。そのときわたしは社会科の授業で街のひとに話を聞きに行く課題の最中だった。男が言う。
 「おれの名前は『アスファルト舐め』だが。これは大胆な意訳でおまえたちの言葉では、発音はおろかその統語さえ覚束ないだろう」
  男の声は経年で造成当初の黒さの抜けたアスファルト、罅のおおい白線のこちら側、砂が吹き寄せて泥になった縁石のほどちかくでくぐもる。
 わたしは一言一句違わず、とわたしは思っているのだが、小さいノートにボールペンで男の発話を書き付ける。そして揮発しやすいそのとき思ったことも註釈としてメモ書きする。
 男はここではないどこかで、そしてこの言葉とは違う言葉での、アスファルト舐めを意味する名前を持っている。ではそのどこか違う場所でのアスファルトとはどういうことなんだろう。舐めるとはどういうことを指すのだろう。見た限りで男はわたしや友達のニエちゃんやお父さんやお母さんや担任のコーヒー先生とおなじようなカラダを持ち、すくなくとも舐めるとは口を開けて、もしくは唇の隙間から舌を出して、あるものに触れることを言う、それはおなじだろう。指先で触れることを舐めると言うのだったら、わたしはわたしのノートもペンも、ニエちゃんの袖もサイフも、そこかしこをぺろぺろ舐めている。唾液は出ないのできたないということもないけれど。ああ、舐めるように見るという言い方もあったのだ。でもそういうことでないらしいのは、男がまさにいま眼の前でアスファルトを舐めている、この言葉での、文字通りの意味で。だからわたしは聞かなければならない。
 「あなたのいた場所でアスファルトとはアスファルトですか」
 男はその高い鼻が邪魔になるようで、舐めるときは両掌のひらで上体を支え、マンホールの奥に耳をそばだてるように顔を傾けだらりと垂れ下がった長い舌でアスファルトを舐める。「アスファルトアスファルトでそれ以外ないだろう、アスファルトでないアスファルトがあったなら是非教えてくれ、舐めに行くから」
 男はいいひとでした。わたしはこの課題がこのように軌道にのるまで五回も失敗していたのでした。みんなわたしが質問をしても、忙しいという旨を口で伝えたり、質問の意味がわからないという顔、わたしが読み間違えていなければ、そして飽きもせずそのつど途方にくれるのでした。そのような体験も大人になるためには必要ということなのかもしれず、でもわたしは失敗するたび言いようもなく疲れて、最後に聞いた彼が十全に対応してくれるので巨大な感謝の念が湧き上がるのを止められませんでした。
 しかし今回の質問は親切な男にもその答えかたがわからなかったようで、わたしは同じようで違う質問をしなければなりません。
 わたしは男にすこしのあいだ待つように言い、ちかくの駐車場まで小走りで向かいました。手当たりしだい、なるべく違った種類になるように礫を拾いあつめ、上着のポケットが一杯になるまで詰め込みます。ついでに細かい砂もほじくって隙間に流し込みました。
 戻ったときも男はその位置を変えていないように思われました。男は歩けないようでした。わたしは男の顔の近く、頑張れば舌の届きそうな範囲に拾ってきたものを広げます。
 男は高い鼻がアスファルトに擦れないよう首を振り、理解と不正解を伝えます。「そうでない。この地のなにを持ってこようとも、それがアスファルトでないかぎりはアスファルトでないんだよ」「部分的には」とわたし。「原料にはなるかも」と男。「じゃあこれ持って行けばどう(でしょう)」ふたたびわたし。男はすこしのあいだ黙っていました。「ちがうかも、いや、完全に違うか。あまりに違っているから宝石としか思われない」かの地でこの地のアスファルトはなんの役にも立たないであろうことを、男の言葉は暗に示していました。「では」わたしは語尾を上げてさらに訊きます。男はアスファルトをもう二、三度舐めてから答えました。「ここでのアスファルトとは、油田から得られた原油のうち最も重い成分の混合物、それは原油の精製過程のうち最後に残ったもので、俗には道路の舗装材として骨材を混ぜ熱した後ゆっくりと冷却しながら結晶化させたものを言うが、おれのいた場所に油田なんてものはないし、道路もそこらじゅうにあるものでもなかった、そしてそれは青くも黒くも液体でも固体でもなく、おまえたちの言うところの樹、のようなものに成るようなものから抽出されるものであって、それはおまえたちの言うところの原油に相当し、そこからは種々の役立つものがつくられる。そして最後に残ったもの、しかし食べるものでなく、高い状態から低い状態からゆっくり変化させると安定し、移動するものの足場を支えるようなところのものだ。そのような意味合いが似ているからおれはここでのアスファルトをそのように認めたわけだ」わたしは男の長広舌に追いつくのに必死で、後からノートを見返してみると、混乱と、その混乱を書いている途中なんとかしようと苦戦した跡が認められました。
 わたしは男にありがとうと礼を言いその場を辞して、帰路に向かう途中はたと思い至り、度重なる車の荷重に耐えかねたアスファルトの罅を手近なコンクリートブロックで殴りつける。手首の奥が痺れるのにはかまわず何度も何度も殴りつけて、そのうちハイになって楽しくなってきたあたりで、手頃な破片が剥離して、下から細かい砂地の層がちらとのぞく。アスファルトの欠片、その断面はなるほど結晶というのにふさわしい黒々とした光沢があり、しかし舐める気にはとうていならずに、わたしは男のいた場所まで今度は走って向かう。男の姿が消えている、と思ったのは束の間、道の反対側の電信柱の影に男は凭れていた。男は眠っていた。ここが外でなければ寝息が聞こえていたはずだった。わたしは男の手に男の場所では宝飾品であろうところのものを握らせ今度こそ帰路に就く、家に帰ると、聞いた話と調べたことをまとめ、そしてわたしは道路の舗装に使われる瀝青の成分はごくわずかでしかないことを知る。